「間違い」を神格化する自由 ('93, December)

 谷川俊太郎の「ナンセンス・カタログ」を読んだ。ひとつのテーマについて2頁ずつのエッセイを書いているのだが、どれもこれも何やらどこかできいた風 な、目新しいもののないわかりきった言葉ばかりで、手応えのない本だった。経験を重ねた者の思想が巡り巡って根本に帰着し、言葉がシンプルになっていく構 造は解らなくもないが、いちいち読まされる方は退屈で仕方がない。受け手の方も充分に枯れていれば良いのだろうが。
 先日の東京ドームでのサイモン&ガーファンクルのコンサートにも似たようなことが言える。あの日、彼らが聴衆に何かを与えようとしている とは思えなかっ た。私には彼らが、自分たちがとっくに辿り着いてしまったところに、リスナーもまた当然のように到達している筈だと言わんばかりに見えたのだ。(実際には ポール・サイモン一人が、と言うべきかもしれない。アート・ガーファンクルに限って言えば、実に自己を最大限に訴えかけたいようでもあった)

 さて、ここからは全く違う話をする。私はS&Gのライヴが始まった瞬間から、ある奇妙な切なさに襲われていて、それが何だか把握出来ないでいた。ところ が中盤過ぎになって、私の連れが急にポケットに手を突っ込んだと思うと、慌てて客席を立っていった。自宅の鍵を失くしたというのだ。そこで私は突然、自分 のはっきりしなかった心境を理解した。
 私が初めてS&Gを聴いたのは3歳の時であり、これはもう完全に私の音楽的ルーツと言ってよい。S&Gは私にとって別格だった。そして彼らが滅多に日本 に来ないことと相まって、彼らの姿をじかに眺めることがあるとは考えもせずにここまで来たのだ。その 雲上の存在が突如として日常の中に降ってきたのである。
 「日常」と私は書いた。何万人もの客を収める巨大な会場でのコンサートが日常であろうか? 然り、それは比較の上では紛れもない日常であった。つまり、 既に見慣れた馬鹿でかい野球場と日本人の群れということだ。他のどのアーティストであってもそこまでは考え及ばなかっただろうが。
 一言でいえば私は彼らに来て欲しくなかったのである。それを気付かせてくれたのが、鍵の紛失という、正に日常的なささやかな出来事だったのだ。
 私のこの矛盾するような不思議な気持ちは何だろうか。それは身勝手な神格化であった。例えばそれは、既に亡きポーランドの情熱家の書いた曲を、やはり今 はなきもう一人の情熱家ホロヴィッツが演じるのを聴き、そこに無償の涙を献上することに喜びを感ずるのと同様である。そこには既に語り終えた者の厳粛な沈 黙がある。例えばサリンジャーが今いきなり腰を上げて日本までやって来て、2時間半の講演をしていったとしたら、私は嬉しいか?
 こういう態度の者はミュージシャン側にしてみれば決して良きファンとは言えない。それくらいは私だって判っているが、このような聴き手が沢山いることも また事実である。
 女性を神格化することが女性蔑視と変わらないのは勿論だが、多くの幸福なピグマリオン達を個別に非難するべきだろうか。私達は、世界をそのままで受け容 れる義務があるのだろうか。
 私は「美」とは眼に見えないものだと思っている。「美」とは間違うところに生じるものだと思っている。そして誰にでも、間違える権利はあるのではない か。



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