「ルーティーンと化した自殺願望」

昨年('02) 8月にこのサイトを立ち上げて以来、死にたいと思ったことが2度ある。昨年11月と今年3月だ。

11月の私はチャット中毒で、ぶっ続けで10時間チャットしていたことすらある。その間殆ど食べないので、痩せて、下着が体から落ちる有様だった。
その頃は慢性的に死にたいと思っていた。チャット中に強烈な自殺願望にとらわれ、自分を抑えかねて床にうずくまったこともあった。

ある明け方、1対1のチャット中に、私の不眠のことが話題になった。相手が、知人の女性が寝ないでネットをやり続けて死んだ話を始めた。不眠が長引くと弱 い 眼球の裏が圧迫されて、突然そこの血管が破れて一瞬で死ぬんだそうだ。彼女もPCに突っ伏して死んだのだという。
死ぬ前は自覚症状が出るんだ、と言われた。その時すでに60 時間以上起きていたのだが、ちょうど少し前から目の裏がじんじんと痛み始めていた。じゃあこのままにしてれば死ぬんだ?と思った途端、笑いが止ま らなくなった。
突然「今死んでも後悔しないだろう?」と言われた。その途端、どう答えたらいいかわからなくなり、発作的にチャットから落ちて、PCまで落とし、その場で わんわん泣いた。
泣きながら別の友達に電話した。彼と話してようやく落ち着いた。

3月には、つきあっていた彼と別れたのをきっかけに死にたくなった。肉体的な脅威すら感じる自殺衝動で、あとで知ったが、その時たまたまやっていたクスリ の副作用に、セロトニンの減少による鬱症状があったらしい。
この時は「死にたい」だか何だか短い文章を、携帯メールで十数人の友だちにいっぺんに送った。返信が次々に届いた。怒っているもの、うろたえているもの、 やさしく心に染みるもの、どれを読んでもただ泣いていた。電話もきた。
強烈なクスリの作用を残したまま、お酒を飲んでふらふらになり、夢の中で乗り切った。

今回が3度目だ。

今回は何だか変だ。私は笑ってる。穏やかに日常をこなしている。誰にも泣きつかない。
前回の時に、ラ クに死ねる方法を検索で探した。私に手首を切ったり首を吊る勇気はないもの。やはり睡眠薬。あちこちの医者を騙して致死量をそろえるのに1ヶ月。 前回はこの1ヶ月の努力が出来るくらいなら死ぬ必要なんかないと思った。
今は何となく違う。1ヶ月後の目標が出来ることが、当面の自分を救う気がする。

初めて、ああ私はいつか本当に死んでしまうかもしれないな、と思った。

親友のTが屋上から飛び降りたのは17歳の夏だ。
彼女は死ぬ数日前に私に会いに来た。私はたまたま東京にいたので会えず、帰りの飛行機で訃報に接した。

Nは数年前に、離婚した後に恋人に捨てられ、酒びたりになった挙句に睡眠薬を飲んだ。人気のない墓地で死後2週間発見されず、真夏だったので、元夫にす ら判別困難なほどだったそうだ。
「Bunny大好き」と私を抱きしめた写真が残っている。頑張り屋な子だった。弱い子だった。お酒に飲まれてた。

彼女たちの死は私にとって、他人事ではなかった。単なる悲劇ではなく、あるやり方の手本として、常に私の発想につきまとうことになった。

「ルー ティーンと化した自殺願望」という言葉自体は、もう何だかうっとりとする響きを持って、甘い音楽のように私を魅了する。

時たまふと、「永遠」の概念を手に入れた気分になることがある。音楽が首をもたげて立ち上がる。日常にべったりと寝転んでいる私の「生」をよそに、私の 「死」が歴史に垂直に突き刺さり、一瞬で折れて霧散する。


('03,11,11)




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